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おいしさのふるさと 富山の種もみ

米どころ富山が、実は種もみどころでもあることをご存じですか。
古くから質の良い種もみ産地として
全国に名をとどろかせていた 富山の種もみ。
富山米のおいしさの秘密のひとつは、種もみにありました。

水田のブランド品

 種もみは、おいしい米を実らせる稲の元となる種子。
品質が命であることはいうまでもありません。
 出荷されるのは、農作物種子法と農産物検査法による厳しい圃場審査・生産物審査や農産物検査をくぐりぬ けた選り抜きのエリート米たち。
ですから、種もみは普通の米を栽培する以上に手間ひまかけて大切に育てられます。
病害虫を徹底して防ぐための農薬散布から、種子の消毒、変異株や混入した異品種株の抜き取り、コンバインの回転数や乾燥温度などにも規制があり、農家の苦労はたいへんなものです。
 種子場には田ごとに「指定種子採種圃」の札が立てられ、札には地番、面積、品種、生産者の住所氏名などが明記されます。
 種もみは、その生い立ちがとても重要で、生産者の名前はもみ袋の一つ一つに記載され、全国の消費地にまでついてまわります。
 これは種もみ農家にとって大きな責任。
同時に、プライドをもって出荷するブランド商品でもあるのです。
審査を通った種もみは最新の技術で管理され、全国へと出荷されます。

売薬さんもPR

 富山と言えば、全国各地へ置き薬を売り歩いた売薬さんが有名。
実はこの売薬さんが、富山の種もみを全国へ広める宣伝マンの役割をも担っていたのです。
 今からおよそ200~250年前、全国各地へ移動する足を見込まれて、売薬商人は薬と共に種もみ斡旋を請け負いはじめました。
 新しい品種が発見されると、売薬商人が口コミによって加賀藩外の各地へ宣伝。
品質の良さが評判となり、やがて富山に種もみの注文が殺到するようになりました。
 種もみの生産は、その後も江戸時代から現代に至るまで連綿と引き継がれました。新品種の開発とあわせて栽培技術や調製技術の改良研究も積み重ねられ、売薬さんが築いた「富山の種もみ」の評判を守り続けています。

おいしさの秘密は風

 種もみを育てる田んぼを種子場(たねば)といい、現在富山県内には、庄川町、砺波市(中野)、富山市(日方江・新保)、黒部市(前沢)、入善町の6つの種子場があります。そのすべてに共通 しているのが、風の通り道という点です。
 中でも生産量が多いのが庄川町や砺波市中野。庄川扇状地にあり、庄川おろしと呼ばれる朝夕の露切り風が稲の生育に好影響を与え、粒が大きく良く熟した質の良い種もみを育てます。また、庄川の澄んだ豊かな水と水はけのよい土壌があいまって強い稲を育て、病害虫の発生はほとんどありません。
 富山市新保と黒部市前沢の種子場では、日暮れから明け方にかけて川風・海風が吹きます。風が露を払った稲からは色よく成熟したもみが採れ、種もみ栽培が盛んになったのは風のおかげとも言われています。

布教と一緒に種もみ普及

 種もみの生産が始まったのは、14世紀末ごろ、現在の井波町の辺りだといわれています。蓮如上人が浄土真宗を広めるため、瑞泉寺を建立するかたわら、種もみの生産に着手したと伝えられています。
 庄川の豊かな冷水と、雪山から吹く露切り風に鍛えられた種もみは、その質の良さから越中五ヶ種として有名になったといいます。
 他に、1750年代に庄川五ヶ村法正寺の了恵法師が布教の時に種もみの交換栽培を斡旋したのが五ヶ種発祥という説、さらに日本農業発達史には、五ヶ新村の肝いり役の徳右衛門なる人が種もみの交換栽培を始め、加賀藩内に広く普及したという説もあります。
 いずれにしても、その品質の良さが人気を高め、広く普及したのかもしれません。